化粧は年齢や身分をあらわす“約束事”

平安時代、9世紀末に遣唐使が廃止されたことから、それまで唐の影響を強く受けていた日本文化に、変化のきざしが現れます。紀貫之が『古今和歌集』を編纂し、また、『土佐日記』を記したりするなど、特権階級である貴族の宮廷生活において、日本独自の文化が育まれていくのです。ファッションや髪型、メークといったよそおいも例外ではなく、華やかな唐風のものから、優美な日本独自のものへと変化していきます。

宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼間も薄暗く、夜は月明かりとロウソクといった現代と比べるとほとんど真っ暗といってもいいほどの環境で生活をしていました。さらに、外出するときには常に顔を覆い隠すなど、他人に顔を見せないことが好ましいとされていたのです。このような環境と美意識が宮廷での特徴的なよそおいの文化を形作っていきました。

しかし、平安時代の宮廷のよそおいは、特定の環境や美意識だけから作られたのではありません。例えば『源氏物語』の主人公、光源氏の娘となる若紫は、10歳で成人の証として眉化粧やお歯黒をしています。当時は年齢や身分、階級による約束事として、よそおいや化粧法が決められており、現代のように自分らしさや個性を表現するおしゃれのあり方とは全く意識が異なるものだったのです。

現代とは異なり、ファッションや髪型、メークで個性を表現することができなかった当時の女性たちにとって、唯一自由に楽しめたおしゃれが「香り」です。自分のお気に入りの香を焚き染めた衣や、香りのついた和歌(手紙)のやり取りを通してアピールすることが、もしかしたら彼女たちの大切な自己表現だったのかもしれません。


貴族社会から武家社会へ

12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。

今に伝わる北條政子の化粧箱

写真の「梅蒔絵手箱」は、源平の戦いに勝ち、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の妻、北条政子のものとされている化粧箱です。ここには鏡、鏡箱、白粉箱、歯黒箱、薫物(たきもの)箱、螺鈿(らでん)櫛、紅筆、鋏(はさみ)などの化粧道具が約30点あまりが収められています。
北条政子といえば頼朝の死後、政治的権力を握り、強くたくましい女性として伝えられています。現代に肖像画は残されていませんが、化粧箱からは彼女が白粉や紅、眉化粧といった化粧をし、髪を整え、身だしなみに気をつかっていたことが想像できます。

一般庶民にも伝えられた化粧

このころ、一般庶民の女性たちにも徐々に化粧が伝わっていったとされていますが、どのような化粧をしていたかは、はっきりとした記述が残っていません。
しかし、室町時代の働く一般庶民を描いたとされる絵巻物、職人歌合にその一端を垣間見ることができます。紅を売る女性の姿もあり、時代を経るごとに一般庶民の間にも確実に化粧が伝えられていったことがわかります。

鎌倉時代から南北朝、室町、安土桃山時代と武士による権力争いが続き、社会も人々の生活も不安定でした。
しかしそんな時代にあっても白粉や紅、眉化粧といった化粧は途絶えることなく行われていました。そしてそれは、一般庶民の間で化粧文化が爆発的に花開く江戸時代まで、脈々と受け継がれていたのです。


参考文献『絵画に見る 日本の美女』/中村渓男著 保育社『日本の美術12 No.67小袖』/神谷栄子編 至文堂
『日本女性の歴史5 鎌倉時代の女傑』/暁教育図書