江戸女性にとってのお歯黒

長く続いた戦乱が終わり、平和が訪れた江戸時代。武士がお歯黒をすることはなくなり、男性では一部、貴族階級にだけにその習慣が残りました。そしてお歯黒は女性だけがする化粧となったのです。

江戸時代の風習に、結婚すると「半元服」と称してお歯黒をし、子供が生まれると「本元服」として眉を剃るという、ひとつの通過儀礼がありました。お歯黒の黒は、他の色に染まらないという意味から、“貞女二夫にまみえず”の証として、既婚女性の象徴とされたのです。

初めてお歯黒をつけるときは「鉄漿付の式」というものを行いました。鉄漿親(かねおや)といって親類縁者の中でも福徳な女性が選ばれ、お歯黒の道具一式をもらってお歯黒をつけます。また、初めてお歯黒をつけることを初鉄漿(はつかね)といい、七ヶ所から鉄漿水をもらうという慣わしがありました。このように、お歯黒は江戸の女性たちにとって、とても大切な意味をもっていました。

また、お歯黒を施し、眉を剃った顔は何とも色っぽく見えるとされ、美しさの表現となっていきます。

一般女性のほか、京都、大阪では遊女や芸者が、また江戸では遊女がお歯黒をしていました。お歯黒で年齢、職業、未婚・既婚といった、いわばその女性のプロフィールまでも判別することができたのです。

黒い歯から白い歯へ

白粉、紅、お歯黒、眉作り・・・こうした日本の伝統化粧は、江戸時代に完成されたといえます。しかし江戸時代が終わりを迎え、明治に入ると、政府によって推し進められた近代化の波が女性の髪形や服装、化粧にも大きな影響を及ぼすことになります。

とりわけ日本女性の伝統化粧であるお歯黒は、来日した外国人たちの目には奇異なものと捉えられ、この意見に反応した政府により、明治3年、華族のお歯黒と眉掃(眉を剃ること)が禁止されました。
さらに、明治6年には、昭憲皇太后が率先してやめたことにより、一般の女性たちも禁止となりました。それまで培ってきた美意識、親しんだ化粧をすぐにはやめられない女性もいましたが、西洋化の勢いとともに、生まれつきの眉と白い健康的な歯の美しさが認められるようになっていきます。
こうしてお歯黒は明治から大正にかけて、少しずつ姿を消していき、それは都市から地方へと広がっていきました。

現在、テレビで放映されている時代劇を見ても、“お歯黒”をしているお姫様や腰元、奥方などが登場することはないようです。お歯黒を施すことが日常であり、美しいと感じていた文化をあなたは想像できるでしょうか。

参考文献『婦人たしなみ草 -江戸時代の化粧道具-』/村田孝子編著 ポーラ文化研究所『江戸の化粧 -川柳で知る女の文化-』平凡社新書渡辺信一郎平凡社『お歯黒のはなし』/山賀禮一著 ゼニス出版