女性たちの憧れ、遊女のよそおい

江戸を中心に栄えた町人文化

江戸時代の中頃になると、街道や港といったインフラが整い、交通網が発達します。人や物、お金が行き来することにより、城下町や宿場町が栄え、都市へと発展していきました。特に江戸は、中期には人口が100万人を超える大都市へと変貌を遂げていました。そして、経済的に豊かになった町人たちによる新しい文化が誕生しました。
次第に華やかさを極めていく町人階級の消費に対し、徳川幕府からは、たびたび贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が発令されます。そうした中、江戸後期に入ると幕府の抑圧に対する反発から、粋で円熟した文化が育まれていきます。それは単に華やかさや贅沢さを追求するだけではない、こだわりを持った工夫を凝らした文化でした。

文学では、世相を皮肉った狂歌や川柳、人情を描いた読本、独特の笑いをもたらす滑稽本など、さまざまなジャンルが登場。よそおいにもその気風は現れ、ただ豪華であるおしゃれから、すっきりと垢抜けたおしゃれが支持されるようになります。それは財力のある町人だけではなく、さまざまな階級の人々に広がっていきました。

また当時、流行の発信地として独特な文化を育んでいたのが「遊郭」です。遊郭に通う人もまた粋な町人たちでしたが、人々の注目は「花魁」と呼ばれる最高位の遊女たちに集まります。ファッションセンスや教養の高さから一般庶民にとっての憧れの的、いわば、現代でいうところのセレブな存在でもありました。

ではそんな遊女たちのよそおいはどのようなものだったのでしょうか?
図の浮世絵で目をひくのは文様が施された重厚な着物と帯、大振りで立体的に結われた髪型です。櫛が2枚に簪が8本という、現代では考えられないほどのたくさんの髪飾りが印象的ですね。

 

こうした髪型は、とうてい一人では結うことができず、「髪結(かみゆい)」と呼ばれる専属の美容師がついていました。化粧はというと、白粉をたっぷりと塗り、眉墨をひき、濃い目の紅と髪型や衣装に負けないぐらいはっきりとした厚化粧をしていました。
こうしたおしゃれの極みに庶民の女性たちが憧れ、真似をすることで生まれた流行をご紹介します。

透ける髪型に緑色に光るリップ…一世を風靡したおしゃれ

そのひとつが江戸時代中期、安永~寛政(1772~1801年)頃に大流行した「燈籠鬢(とうろうびん)」という髪型です。これは、顔の両サイドの生え際の髪を薄く取り、その毛を鬢挿し(髪を立体的に固定する梁、鯨の髭などで作られていた)に掛け、ふんわりと半円状に膨らませた髪型で、燈籠の笠のように見えることからその名がついたといわれています。

膨らませた部分から向こう側が透けて見えるのがなんとも涼しげで、当時の女性たちの心を捉え、大流行しました。浮世絵を見ると遊女たちも多く結っていることがわかります。

一方、化粧はベースメークに白粉を塗り、眉墨で眉を書き、唇には紅をつけるという基本は変わりませんが、時代によって特徴あるスタイルが流行しました。図版は、江戸時代後期に遊女の化粧から流行した笹色紅という化粧法です。紅を何度も重ねづけすることにより、唇を緑色に光らせます。とはいえ、当時、紅は大変高価なもの。一般の女性たちは、摺った墨を唇に下地として塗った上に紅をつけるという裏技で笹色紅と同じ効果を出していました。

流行は「錦絵」でゲット!

では、ファッション誌やテレビといったメディアがない時代、女性たちの間でどのように流行がキャッチされ、伝わっていたのでしょうか。
大きな役割を果たしたのが江戸時代中期に登場した「錦絵」と呼ばれる多色刷りの版画です。

 

錦絵は、葛飾北斎が描いた日本の名所などの風景画が有名ですが、当時人気を博した歌舞伎役者や遊女、美人で評判の町娘などが題材となることも多く、ファッションカタログの役割も果たしていました。女性たちは、ひいきの役者や人気の美人が描かれた錦絵を買い求め、流行をキャッチしていたのです。手段は違っても、流行を取り入れて着飾りたいという、現代と変わらない女心を垣間見ることができます。

 

参考文献
『江戸300年の女性美 化粧と髪型』/村田孝子著 花林舎編 青幻舎
『都風俗化粧伝』東洋文庫/佐山半七丸 速水春暁齋画図 高橋雅夫校注 平凡社
『世界の櫛』/ポーラ文化研究所編