美意識の大改革 ~お歯黒と眉剃りの禁止~

1868年、新しい国づくりを目指す人々のもと、明治時代が幕を開けました。新しい政府では、欧米に習って国の近代化が推し進められました。街には髷を切った男性や洋装の人々が登場するなど、文明開化の掛け声とともに西洋文化が次々と推奨されていきました。生活環境が大きく変わることによって、女性たちのよそおいにもさまざまな変化が訪れることになるのです。


美意識の大改革 ~お歯黒と眉剃りの禁止~

変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。

眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。

ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。

和服にも似合う最新ヘアスタイル登場!

明治時代に入って西洋化が推し進められても、一般女性のほとんどは和服を着ていました。そのため、ヘアスタイルも島田髷や丸髷といった江戸時代から続く日本髪が一般的でした。

しかし明治18年、日本髪は手入れが大変なうえに、不潔不経済ということから日本髪を廃止し、新しい髪型にしようという婦人束髪会が設立されます。
そこで提案された束髪(そくはつ)という髪型は、三つ編みなどをベースに、垂らしたり丸めて髷を作るなど、それまでの日本髪と比べて軽く、簡単に結えるのが特徴でした。

中でも三つ編みをベースにリボンを飾った「マガレイト」やすっきりとしたアップスタイル「あげ巻」といった髪型は、人気の髪型となりました。また、これらの新しい髪型は、なんといっても和服にも似合うということから、たちまち女性たちの間で流行しました。

ところが明治27年頃から、日清戦争による国粋主義の影響で、一時、洋風文化である束髪が影をひそめ、日本髪が再び支持されるようになります。
そして明治35年頃には、前髪を庇のように極端に張り出した「庇髪(ひさしがみ)」と呼ばれる新しい髪型が登場します。
明治時代は新しい髪型である束髪が登場しつつも、日本髪も結われていたという過渡期の時代といえます。

いちはやく洋装にチャレンジしたのは上流階級の女性たち

 

明治16年、政府は欧米に対し日本の近代化を示すため、海外からの来賓客をもてなす洋館、鹿鳴館を建設します。そこで上流階級の女性たちは、着慣れないながらも当時ヨーロッパで流行していたバッスルスタイルというドレスに身を包み、舞踏会に出席しました。日本女性にとっての洋装の始まりは、この鹿鳴館の影響が大きく関わっていたのでしょう。

しかし、こうしたドレスは、輸入品でとても高価なことから、華族や高官の夫人、令嬢といった上流階級の女性たちだけが着ることのできたスタイルでした。多くの一般女性は、和服姿がほとんどであり、日本の一般女性が洋服を着こなすようになるのは、次の時代、女性の社会進出が始まる大正時代に入ってからのことです。

 

政治や生活環境の変化とともに、女性たちのよそおいに変化が訪れた明治時代。日本髪と束髪、和服と洋服といった和洋2つのスタイルが混在していたことからも、それまでの価値観や美意識を急激に変えていくのはとても難しかったことが伺えます。明治時代は女性たちが戸惑いつつも、新しいよそおいに挑戦していた、現代のよそおいにつながる第一歩が踏み出された時代だったといえるでしょう。

参考文献『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著 ポーラ文化研究所『ファッションと風俗の70年』/婦人画報社『幕末維新・明治美人帖』/ポーラ文化研究所編 新人物往来社