憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生

明治時代中期から後期、日本政府は欧米諸国に追いつこうと日清戦争日露戦争を引き起こし、一方文化面では欧米のトレンドがほぼ同時期に日本に入ってきていました。このころ女性の教育も盛んになり、女性が少しずつ社会に出始めた時代でもありました。

『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。

憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生

 

上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。

そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。

また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。

明治の中頃になると、化粧品の広告が新聞紙面に目立ち始めます。化粧水が大流行したり、輸入品の化粧品もさることながら国産品も出回るようになります。欧米からクリームが輸入されるようになると、その使用法にも大きな変化が現れます。明治時代末期~大正時代にかけてクリームはスキンケアとしてだけではなく、化粧下地としても普及していきました。

当時の最新メーク法は、クリームを下地としてつけ、粉白粉をはたき薄化粧のベースをつくり、眉は自然な太眉に。紅は唇いっぱいではなく、中央におちょぼ口に書くメークでした。

 

さらに白粉も粉白粉、水白粉、練白粉となりたい仕上がりに合わせさまざまなタイプが登場。そしてなんといっても、それまで白粉といえば白一色だった白粉に肉色、黄色といった色つきの白粉が登場します。これは当時の日本女性にとって自分の肌の色を自覚する画期的なできごとだったのです。

エステティックサロン登場

 

もうひとつ明治時代に欧米からもたらされた新しい美容法として、現代でいうところのエステがあげられます。

一般の日本女性向けにエステティックサロンがはじめて登場したのは、明治40年、遠藤波津子が京橋に開業したのがはじまりともいわれています。当時エステは「美顔術」と呼ばれ、主にクリームを使って肌の汚れをとるというものでした。一回の施術料は高額だったものの、当時女性の雑誌記者が体験取材に訪れるほど、女性たちの関心は高かったといいます。

明治時代中期から後期、日本が欧米に追いつこうと技術や文化の吸収に努めていた時代、そうした社会情勢が女性たちのよそおいにも大きく影響を与えていたのでしょう。

上流階級の女性たちは洋装をはじめ輸入物の石鹸や香水といったものにいち早く触れ、一般女性の間でも新しい化粧品や美容情報に触れることで、より一層美しさやおしゃれに関心が高まっていった時代といえるでしょう。

参考文献『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編『写真にみる日本洋装史』/遠藤武・石山彰著 文化出版局

 

図録『美しさへの挑戦 -ヘアモード・メークアップの300年-』/ポーラ文化研究所編 NHKプロモーション編集・発行