憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生

明治時代中期から後期、日本政府は欧米諸国に追いつこうと日清戦争日露戦争を引き起こし、一方文化面では欧米のトレンドがほぼ同時期に日本に入ってきていました。このころ女性の教育も盛んになり、女性が少しずつ社会に出始めた時代でもありました。

『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。

憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生

 

上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。

そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。

また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。

明治の中頃になると、化粧品の広告が新聞紙面に目立ち始めます。化粧水が大流行したり、輸入品の化粧品もさることながら国産品も出回るようになります。欧米からクリームが輸入されるようになると、その使用法にも大きな変化が現れます。明治時代末期~大正時代にかけてクリームはスキンケアとしてだけではなく、化粧下地としても普及していきました。

当時の最新メーク法は、クリームを下地としてつけ、粉白粉をはたき薄化粧のベースをつくり、眉は自然な太眉に。紅は唇いっぱいではなく、中央におちょぼ口に書くメークでした。

 

さらに白粉も粉白粉、水白粉、練白粉となりたい仕上がりに合わせさまざまなタイプが登場。そしてなんといっても、それまで白粉といえば白一色だった白粉に肉色、黄色といった色つきの白粉が登場します。これは当時の日本女性にとって自分の肌の色を自覚する画期的なできごとだったのです。

エステティックサロン登場

 

もうひとつ明治時代に欧米からもたらされた新しい美容法として、現代でいうところのエステがあげられます。

一般の日本女性向けにエステティックサロンがはじめて登場したのは、明治40年、遠藤波津子が京橋に開業したのがはじまりともいわれています。当時エステは「美顔術」と呼ばれ、主にクリームを使って肌の汚れをとるというものでした。一回の施術料は高額だったものの、当時女性の雑誌記者が体験取材に訪れるほど、女性たちの関心は高かったといいます。

明治時代中期から後期、日本が欧米に追いつこうと技術や文化の吸収に努めていた時代、そうした社会情勢が女性たちのよそおいにも大きく影響を与えていたのでしょう。

上流階級の女性たちは洋装をはじめ輸入物の石鹸や香水といったものにいち早く触れ、一般女性の間でも新しい化粧品や美容情報に触れることで、より一層美しさやおしゃれに関心が高まっていった時代といえるでしょう。

参考文献『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編『写真にみる日本洋装史』/遠藤武・石山彰著 文化出版局

 

図録『美しさへの挑戦 -ヘアモード・メークアップの300年-』/ポーラ文化研究所編 NHKプロモーション編集・発行

美意識の大改革 ~お歯黒と眉剃りの禁止~

1868年、新しい国づくりを目指す人々のもと、明治時代が幕を開けました。新しい政府では、欧米に習って国の近代化が推し進められました。街には髷を切った男性や洋装の人々が登場するなど、文明開化の掛け声とともに西洋文化が次々と推奨されていきました。生活環境が大きく変わることによって、女性たちのよそおいにもさまざまな変化が訪れることになるのです。


美意識の大改革 ~お歯黒と眉剃りの禁止~

変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。

眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。

ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。

和服にも似合う最新ヘアスタイル登場!

明治時代に入って西洋化が推し進められても、一般女性のほとんどは和服を着ていました。そのため、ヘアスタイルも島田髷や丸髷といった江戸時代から続く日本髪が一般的でした。

しかし明治18年、日本髪は手入れが大変なうえに、不潔不経済ということから日本髪を廃止し、新しい髪型にしようという婦人束髪会が設立されます。
そこで提案された束髪(そくはつ)という髪型は、三つ編みなどをベースに、垂らしたり丸めて髷を作るなど、それまでの日本髪と比べて軽く、簡単に結えるのが特徴でした。

中でも三つ編みをベースにリボンを飾った「マガレイト」やすっきりとしたアップスタイル「あげ巻」といった髪型は、人気の髪型となりました。また、これらの新しい髪型は、なんといっても和服にも似合うということから、たちまち女性たちの間で流行しました。

ところが明治27年頃から、日清戦争による国粋主義の影響で、一時、洋風文化である束髪が影をひそめ、日本髪が再び支持されるようになります。
そして明治35年頃には、前髪を庇のように極端に張り出した「庇髪(ひさしがみ)」と呼ばれる新しい髪型が登場します。
明治時代は新しい髪型である束髪が登場しつつも、日本髪も結われていたという過渡期の時代といえます。

いちはやく洋装にチャレンジしたのは上流階級の女性たち

 

明治16年、政府は欧米に対し日本の近代化を示すため、海外からの来賓客をもてなす洋館、鹿鳴館を建設します。そこで上流階級の女性たちは、着慣れないながらも当時ヨーロッパで流行していたバッスルスタイルというドレスに身を包み、舞踏会に出席しました。日本女性にとっての洋装の始まりは、この鹿鳴館の影響が大きく関わっていたのでしょう。

しかし、こうしたドレスは、輸入品でとても高価なことから、華族や高官の夫人、令嬢といった上流階級の女性たちだけが着ることのできたスタイルでした。多くの一般女性は、和服姿がほとんどであり、日本の一般女性が洋服を着こなすようになるのは、次の時代、女性の社会進出が始まる大正時代に入ってからのことです。

 

政治や生活環境の変化とともに、女性たちのよそおいに変化が訪れた明治時代。日本髪と束髪、和服と洋服といった和洋2つのスタイルが混在していたことからも、それまでの価値観や美意識を急激に変えていくのはとても難しかったことが伺えます。明治時代は女性たちが戸惑いつつも、新しいよそおいに挑戦していた、現代のよそおいにつながる第一歩が踏み出された時代だったといえるでしょう。

参考文献『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著 ポーラ文化研究所『ファッションと風俗の70年』/婦人画報社『幕末維新・明治美人帖』/ポーラ文化研究所編 新人物往来社

女性たちの憧れ、遊女のよそおい

江戸を中心に栄えた町人文化

江戸時代の中頃になると、街道や港といったインフラが整い、交通網が発達します。人や物、お金が行き来することにより、城下町や宿場町が栄え、都市へと発展していきました。特に江戸は、中期には人口が100万人を超える大都市へと変貌を遂げていました。そして、経済的に豊かになった町人たちによる新しい文化が誕生しました。
次第に華やかさを極めていく町人階級の消費に対し、徳川幕府からは、たびたび贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が発令されます。そうした中、江戸後期に入ると幕府の抑圧に対する反発から、粋で円熟した文化が育まれていきます。それは単に華やかさや贅沢さを追求するだけではない、こだわりを持った工夫を凝らした文化でした。

文学では、世相を皮肉った狂歌や川柳、人情を描いた読本、独特の笑いをもたらす滑稽本など、さまざまなジャンルが登場。よそおいにもその気風は現れ、ただ豪華であるおしゃれから、すっきりと垢抜けたおしゃれが支持されるようになります。それは財力のある町人だけではなく、さまざまな階級の人々に広がっていきました。

また当時、流行の発信地として独特な文化を育んでいたのが「遊郭」です。遊郭に通う人もまた粋な町人たちでしたが、人々の注目は「花魁」と呼ばれる最高位の遊女たちに集まります。ファッションセンスや教養の高さから一般庶民にとっての憧れの的、いわば、現代でいうところのセレブな存在でもありました。

ではそんな遊女たちのよそおいはどのようなものだったのでしょうか?
図の浮世絵で目をひくのは文様が施された重厚な着物と帯、大振りで立体的に結われた髪型です。櫛が2枚に簪が8本という、現代では考えられないほどのたくさんの髪飾りが印象的ですね。

 

こうした髪型は、とうてい一人では結うことができず、「髪結(かみゆい)」と呼ばれる専属の美容師がついていました。化粧はというと、白粉をたっぷりと塗り、眉墨をひき、濃い目の紅と髪型や衣装に負けないぐらいはっきりとした厚化粧をしていました。
こうしたおしゃれの極みに庶民の女性たちが憧れ、真似をすることで生まれた流行をご紹介します。

透ける髪型に緑色に光るリップ…一世を風靡したおしゃれ

そのひとつが江戸時代中期、安永~寛政(1772~1801年)頃に大流行した「燈籠鬢(とうろうびん)」という髪型です。これは、顔の両サイドの生え際の髪を薄く取り、その毛を鬢挿し(髪を立体的に固定する梁、鯨の髭などで作られていた)に掛け、ふんわりと半円状に膨らませた髪型で、燈籠の笠のように見えることからその名がついたといわれています。

膨らませた部分から向こう側が透けて見えるのがなんとも涼しげで、当時の女性たちの心を捉え、大流行しました。浮世絵を見ると遊女たちも多く結っていることがわかります。

一方、化粧はベースメークに白粉を塗り、眉墨で眉を書き、唇には紅をつけるという基本は変わりませんが、時代によって特徴あるスタイルが流行しました。図版は、江戸時代後期に遊女の化粧から流行した笹色紅という化粧法です。紅を何度も重ねづけすることにより、唇を緑色に光らせます。とはいえ、当時、紅は大変高価なもの。一般の女性たちは、摺った墨を唇に下地として塗った上に紅をつけるという裏技で笹色紅と同じ効果を出していました。

流行は「錦絵」でゲット!

では、ファッション誌やテレビといったメディアがない時代、女性たちの間でどのように流行がキャッチされ、伝わっていたのでしょうか。
大きな役割を果たしたのが江戸時代中期に登場した「錦絵」と呼ばれる多色刷りの版画です。

 

錦絵は、葛飾北斎が描いた日本の名所などの風景画が有名ですが、当時人気を博した歌舞伎役者や遊女、美人で評判の町娘などが題材となることも多く、ファッションカタログの役割も果たしていました。女性たちは、ひいきの役者や人気の美人が描かれた錦絵を買い求め、流行をキャッチしていたのです。手段は違っても、流行を取り入れて着飾りたいという、現代と変わらない女心を垣間見ることができます。

 

参考文献
『江戸300年の女性美 化粧と髪型』/村田孝子著 花林舎編 青幻舎
『都風俗化粧伝』東洋文庫/佐山半七丸 速水春暁齋画図 高橋雅夫校注 平凡社
『世界の櫛』/ポーラ文化研究所編

女性たちのよそおい

江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。

花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。

 

この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。

こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。

化粧に目覚めた女性たち

平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。

それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。

しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。

また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。

この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。

 

参考文献『結うこころ -日本髪の美しさとその型-』/村田孝子編著 ポーラ文化研究所『江戸美人の化粧術』/陶智子著 講談社『ヴィジュアル百科江戸事情 第6巻 服飾編』/NHKデータ情報部編 雄山閣

江戸女性にとってのお歯黒

長く続いた戦乱が終わり、平和が訪れた江戸時代。武士がお歯黒をすることはなくなり、男性では一部、貴族階級にだけにその習慣が残りました。そしてお歯黒は女性だけがする化粧となったのです。

江戸時代の風習に、結婚すると「半元服」と称してお歯黒をし、子供が生まれると「本元服」として眉を剃るという、ひとつの通過儀礼がありました。お歯黒の黒は、他の色に染まらないという意味から、“貞女二夫にまみえず”の証として、既婚女性の象徴とされたのです。

初めてお歯黒をつけるときは「鉄漿付の式」というものを行いました。鉄漿親(かねおや)といって親類縁者の中でも福徳な女性が選ばれ、お歯黒の道具一式をもらってお歯黒をつけます。また、初めてお歯黒をつけることを初鉄漿(はつかね)といい、七ヶ所から鉄漿水をもらうという慣わしがありました。このように、お歯黒は江戸の女性たちにとって、とても大切な意味をもっていました。

また、お歯黒を施し、眉を剃った顔は何とも色っぽく見えるとされ、美しさの表現となっていきます。

一般女性のほか、京都、大阪では遊女や芸者が、また江戸では遊女がお歯黒をしていました。お歯黒で年齢、職業、未婚・既婚といった、いわばその女性のプロフィールまでも判別することができたのです。

黒い歯から白い歯へ

白粉、紅、お歯黒、眉作り・・・こうした日本の伝統化粧は、江戸時代に完成されたといえます。しかし江戸時代が終わりを迎え、明治に入ると、政府によって推し進められた近代化の波が女性の髪形や服装、化粧にも大きな影響を及ぼすことになります。

とりわけ日本女性の伝統化粧であるお歯黒は、来日した外国人たちの目には奇異なものと捉えられ、この意見に反応した政府により、明治3年、華族のお歯黒と眉掃(眉を剃ること)が禁止されました。
さらに、明治6年には、昭憲皇太后が率先してやめたことにより、一般の女性たちも禁止となりました。それまで培ってきた美意識、親しんだ化粧をすぐにはやめられない女性もいましたが、西洋化の勢いとともに、生まれつきの眉と白い健康的な歯の美しさが認められるようになっていきます。
こうしてお歯黒は明治から大正にかけて、少しずつ姿を消していき、それは都市から地方へと広がっていきました。

現在、テレビで放映されている時代劇を見ても、“お歯黒”をしているお姫様や腰元、奥方などが登場することはないようです。お歯黒を施すことが日常であり、美しいと感じていた文化をあなたは想像できるでしょうか。

参考文献『婦人たしなみ草 -江戸時代の化粧道具-』/村田孝子編著 ポーラ文化研究所『江戸の化粧 -川柳で知る女の文化-』平凡社新書渡辺信一郎平凡社『お歯黒のはなし』/山賀禮一著 ゼニス出版

お歯黒ってどんなお化粧?

わたしたち現代人にとって、「真っ白に輝く歯」は美の象徴ですが、実は明治時代はじめの頃までの日本では、 歯を真っ黒に染める化粧、「お歯黒」が美しいとされていました。

お歯黒は、鉄漿(かね)とも表されましたが、その理由は鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を歯に交互につけることで歯を黒く染めたからです。鉄漿水とは、酢の中に酒、米のとぎ汁、折れた釘などの鉄を溶かして作った茶褐色の液体で、たいへん悪臭がしたといいます。一方、五倍子粉は、ヌルデ(ウルシ科の落葉小高木)にできる虫瘤(むしこぶ)を採取し、乾燥させて粉にしたものでタンニンを多く含んでいます。
鉄漿水の酢酸第一鉄と、五倍子粉のタンニン酸が結合することで黒く染まる仕組みでした。
ちなみにお歯黒には、歯を強くし、虫歯や歯周病の予防にもなるといった実用的な効果もありました。

お歯黒のはじまり

 

では、お歯黒はいつ頃から、何のために行われるようになったのでしょうか。
はっきりとしたことはわかっていませんが、縄文時代の古墳から発掘された人骨や埴輪にお歯黒の形跡を見ることができます。
また、3世紀末に記された中国の『魏書』(通称:魏志倭人伝)に「黒歯国東海中に有り」と記載されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺えます。
このように古代から行われていたお歯黒ですが、日本で人々の習慣になったのは、平安時代に入ってからと考えられています。

平安女性にとってのお歯黒

平安時代の『源氏物語絵巻』などをみると、黒髪と白い肌のコントラストの美しさと、ふっくらとした顔に細い目、小さな口元が美しいとされていたことがわかります。
歯を黒く染めることで歯の存在を消すお歯黒は、小さな口元を強調するために行われていた化粧なのです。
また、この時代のお歯黒は、成人への通過儀礼でもありました。

さらに室町時代になるとお歯黒は一般にも広がり、戦国時代には政略結婚を背景として、10歳前後の武将の息女に成人の印としてお歯黒が行われました。こうしたことから、お歯黒は時代とともに既婚女性の象徴になっていったと考えられます。

お歯黒は権威の証

 

その一方で、女性だけでなく男性もお歯黒を行っていました。平安時代末期の貴族男性や、武士でありながら貴族文化に傾倒した平氏の武将たちも、白粉や紅とともにお歯黒を施すことで権威を示していたのです。

室町時代、戦国時代の一部の武士は、戦場で破れ首を打たれた場合を想定し、敵に対して自分の身分を示し、見苦しくないようにと白粉や紅、お歯黒といった化粧を行っていたといいます。

次回は戦乱が終わり、独特の美意識が花開いた江戸女性たちのお歯黒化粧をご紹介します。

参考文献『日本の化粧』/ポーラ文化研究所編『歯の風俗史』/長谷川正康著 時空出版『お歯黒の研究』/原三正著 人間の科学社

化粧は年齢や身分をあらわす“約束事”

平安時代、9世紀末に遣唐使が廃止されたことから、それまで唐の影響を強く受けていた日本文化に、変化のきざしが現れます。紀貫之が『古今和歌集』を編纂し、また、『土佐日記』を記したりするなど、特権階級である貴族の宮廷生活において、日本独自の文化が育まれていくのです。ファッションや髪型、メークといったよそおいも例外ではなく、華やかな唐風のものから、優美な日本独自のものへと変化していきます。

宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼間も薄暗く、夜は月明かりとロウソクといった現代と比べるとほとんど真っ暗といってもいいほどの環境で生活をしていました。さらに、外出するときには常に顔を覆い隠すなど、他人に顔を見せないことが好ましいとされていたのです。このような環境と美意識が宮廷での特徴的なよそおいの文化を形作っていきました。

しかし、平安時代の宮廷のよそおいは、特定の環境や美意識だけから作られたのではありません。例えば『源氏物語』の主人公、光源氏の娘となる若紫は、10歳で成人の証として眉化粧やお歯黒をしています。当時は年齢や身分、階級による約束事として、よそおいや化粧法が決められており、現代のように自分らしさや個性を表現するおしゃれのあり方とは全く意識が異なるものだったのです。

現代とは異なり、ファッションや髪型、メークで個性を表現することができなかった当時の女性たちにとって、唯一自由に楽しめたおしゃれが「香り」です。自分のお気に入りの香を焚き染めた衣や、香りのついた和歌(手紙)のやり取りを通してアピールすることが、もしかしたら彼女たちの大切な自己表現だったのかもしれません。


貴族社会から武家社会へ

12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。

今に伝わる北條政子の化粧箱

写真の「梅蒔絵手箱」は、源平の戦いに勝ち、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の妻、北条政子のものとされている化粧箱です。ここには鏡、鏡箱、白粉箱、歯黒箱、薫物(たきもの)箱、螺鈿(らでん)櫛、紅筆、鋏(はさみ)などの化粧道具が約30点あまりが収められています。
北条政子といえば頼朝の死後、政治的権力を握り、強くたくましい女性として伝えられています。現代に肖像画は残されていませんが、化粧箱からは彼女が白粉や紅、眉化粧といった化粧をし、髪を整え、身だしなみに気をつかっていたことが想像できます。

一般庶民にも伝えられた化粧

このころ、一般庶民の女性たちにも徐々に化粧が伝わっていったとされていますが、どのような化粧をしていたかは、はっきりとした記述が残っていません。
しかし、室町時代の働く一般庶民を描いたとされる絵巻物、職人歌合にその一端を垣間見ることができます。紅を売る女性の姿もあり、時代を経るごとに一般庶民の間にも確実に化粧が伝えられていったことがわかります。

鎌倉時代から南北朝、室町、安土桃山時代と武士による権力争いが続き、社会も人々の生活も不安定でした。
しかしそんな時代にあっても白粉や紅、眉化粧といった化粧は途絶えることなく行われていました。そしてそれは、一般庶民の間で化粧文化が爆発的に花開く江戸時代まで、脈々と受け継がれていたのです。


参考文献『絵画に見る 日本の美女』/中村渓男著 保育社『日本の美術12 No.67小袖』/神谷栄子編 至文堂
『日本女性の歴史5 鎌倉時代の女傑』/暁教育図書